ドラマ真田丸は中小企業である真田家の経営戦略を描いた話

2020年2月6日

真田家の経営戦略

大河ドラマ真田丸を見ていて感じるのは、中小企業が大企業に翻弄されるのはいつの時代も一緒なんだなーということ。

徳川家や豊臣家が大企業だとすれば、真田家は中小企業。大企業のシェア争いに巻き込まれる中、いかに自社が生き残るかが問われています。

関ヶ原のシェア争いの頃なんかは、徳川ホールディングス豊臣コンツェルンが、家臣(人)、領地、権力の面でシェアを争っている訳です。

元々豊臣コンツェルンの傘下にいた徳川グループですが、豊臣コンツェルン総裁が表舞台から退いた後、数々の引き抜き工作を行い、徳川ホールディングスとしてグループ企業を大きくしています。

中小企業である株式会社真田家は、そのシェア争いに巻き込まれ、どちらにつくか余儀なくされているのです。

ああ! なんということでしょう。現代でも見られる構図が戦国自体から見られたなんて!

こんな話をもりもりと語る回です。なお、このページにある企業名は架空のもので、実在の企業とは一切関係ありません。念のため。

戦いは数だよ兄貴!

おそらく多くの方が、歴史の授業で触れた、関ケ原や大阪の戦いにおける徳川家や豊臣家の戦い方をスタンダードとして感じているんじゃないでしょうか。

つまり、広い合戦場で陣を敷いて物量で押す戦い方です。これはランチェスターの第二法則ですね。覚えたての言葉なのでどんどん使います。

ランチェスターの第二法則についてざっくり言うと、同じような武器を持っている集団戦における戦力は人数の2乗に比例する、というもの。

例えば、3人対5人でぶつかったら、戦力の比は9対25になるのです。人数が多い方が有利ですよね。つまり「戦いは数だよ兄貴!」なのです。

真田家の戦い方

これに比べたら、真田家の戦い方は特殊です。地形や城を利用し、少ない人数で敵を無力化していきます。広い原っぱだけが戦場じゃないぞ、と教えてくれる素晴らしい戦い方。

これはまさにランチェスター戦略で言う弱者の戦略です。うん、どんな本を読んで影響されたか一発でばれますね。

広い戦場であれば物量で押されてしまいますが、狭い戦場であれば、それをひっくり返すこともできます。

例えば、1, 2人しか通れない道を敵が通ってくる場合、広い地形に出る道の出口で大勢で待ち構えていれば、兵力の差を覆せるのです。この戦場の選び方が上手かったのが真田家です。

真田幸村の父である真田昌幸が築城した上田城は、山と川に囲まれた天然の要塞でした。敵が大勢で攻めてきても、川を溢れさせたり、道をふさぐなどして、敵を分断させて各個撃破する戦略が取れるのです。

二度も徳川勢の猛攻をしのいだのは、この戦略が取れたからこそ。

全体としての敵の数が大きくても、場所を選べば勝てることもあります。数で劣る弱者が勝つには、戦場を選ぶことが大切です。

元々の親会社の倒産

さて、真田家の経営戦略を流れに沿って見てみましょう。

武田信玄コーポレーション株式会社の倒産。これは株式会社真田家にとって一大事でした。

親会社の武田信玄コーポレーションが、織田貿易通商株式会社とのシェア争いに敗れたため、倒産に追い込まれグループは解散。

株式会社真田家は、織田グループとの業務提携を行い何とか生き残ったものの、その直後に織田グループ本社の専務取締役でもある、株式会社明智インダストリの明智光秀が本能寺の株主総会で謀反を起こして織田信長はCEOを解任。

これにより、業務提携を行った織田グループまで解体に追い込まれます。

徳川ホールディングス株式会社北条トライフォース株式会社上杉アグリカルチャーと、名だたる大企業に囲まれている株式会社真田家は、数々の策を弄して何とか信州のシェア1位を守り抜きました。

豊臣コンツェルンの台頭

西の方では、明智インダストリに敵対的買収を仕掛けて豊臣コンツェルンがその地位を築き上げました。

織田信長の元で経営戦略を学んでいた豊臣秀吉総裁は、徳川、北条、上杉を傘下に加えようと数々の工作を行い、ついに日本一の企業へと相成ったのです。この栄華は秀吉総裁が退任するまで続いていました。

このとき、株式会社真田家の常務取締役でもある幸村は、秀吉総裁に気に入られたこともあり、豊臣コンツェルンの中で人脈を築き上げました。

徳川ホールディングスの独立

秀吉総裁退任後、この男が動きます。そう、豊臣コンツェルン重役の徳川家康です。彼は同じく豊臣コンツェルン重役達に対して引き抜き工作を行い、徳川ホールディングスが独立しちゃいました。

それを止めようとした石田三成とは険悪な仲に。

石田三成も豊臣コンツェルンのため数々の戦略を練りますが、人材の流出、シェアの低下が止まりません。ついに関ケ原のシェア争いで勝った方が全国シェア1位になる、という段階まで進みました。

株式会社真田家の分社化

関ヶ原のシェア争いに備えて、株式会社真田家は、犬伏で分社化の決断を行いました。父・昌幸と幸村が主導する真田エンタープライズ株式会社と、兄・信之が主導する真田総研株式会社です。

真田エンタープライズ株式会社は豊臣コンツェルンに株を持ってもらい、豊臣の事業の協力を行います。一方、真田総研株式会社は徳川ホールディングスの子会社となりました。

豊臣コンツェルン、徳川ホールディングスそれぞれから真田に出された条件は、真田同士の株を持ち合わないこと。シェア争いしてるのに、自分のグループの子会社と、ライバルグループの子会社がガッツリ業務提携してます、なんて恐ろしいことはできません。

こうして分社化した真田家ですが、徳川、豊臣のどちらが勝っても、勝った方の社名についた「真田」の文字は残ります。彼らは「真田」の名前を残すため、戦略的に分社化を行ったのです。

中小企業とはいえ、真田家は信州という市場で見ればシェア1位の強者です。分社化してもそれぞれ会社として成り立つだけの体力があったことが、彼らの戦略を後押ししています。

関ヶ原のシェア争い

天下分け目のシェア争い。豊臣コンツェルンも徳川ホールディングスも譲りません。

ですが、徳川ホールディングスによる買収工作が功を奏し、多くの人材を手に入れた徳川ホールディングスは数の力で豊臣コンツェルンのシェアを奪い取り、全国シェア1位の強者へと躍り出たのです。

真田エンタープライズ株式会社は、信州での徳川ホールディングスとのシェア争いに勝ったものの、大元の豊臣コンツェルンが負けてしまったため、解雇の危機に陥りました。

徳川ホールディングス傘下の真田総研株式会社が頑張ったおかげで解雇は免れたものの、吸収合併で会社を取られた上、九度山に転勤になりました。

大坂の戦い

シェア奪回を目指す豊臣コンツェルン。かつての体力は無くなっているものの、一度マーケットを作った実績とノウハウがあったので、業務提携を行ってくれる会社もありました。それが大坂牢人五人衆をはじめとする牢人たちです。

真田エンタープライズ株式会社は無くなってしまいましたが、真田幸村は新たに起業して株式会社真田丸を作りました。彼にも、親から引き継いだノウハウがあったので、大坂でのシェア奪還に大きく貢献しました。

徳川ホールディングス会長の徳川家康は、老年のためもう少しで隠居生活に入る、と耳にした豊臣コンツェルンはその時を待ちます。徳川家康会長が引退すれば、あまり話題に上らない二代目がグループを引き継ぐので、その隙にシェア奪還を行おうとしたのです。

しかし、豊臣コンツェルンには産業スパイがわんさか入り込んでいたため、情報も技術も徳川ホールディングスに持っていかれ、経営陣に居座る無能な取締役の存在もあり、結果として市場からの撤退を余儀なくされたのです。

大坂牢人五人衆の会社も次々と倒産し、市場から姿を消していきました。

生き残った真田総研株式会社

兄・信之の真田総研株式会社は、徳川ホールディングス傘下の1企業としてずっと残りました。真田の名を残すという昌幸、信之、幸村の戦略目標は達成されたのです。

真田家は大企業とは言えないまでも、中小企業として生き残りのために常に頭を働かせ、知恵を絞っていました。弱者としての戦略をとり、それを完遂させたからこそ、生き延びることができたのです。

大企業の熾烈なシェア争いに巻き込まれながらも、自社の存在を市場に知らしめたその強さに、感涙を禁じえません。

まとめ

戦国時代、周りの大きな国に振り回された真田家。その様子を現代風に考えてみるとこんな感じかなーと妄想してみました。

大企業は強いです。でも中小企業なりの戦い方だってあるんです。真田家はそれを私たちに教えてくれているのです。